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DEADLY DRIVE : ウィキペディア日本語版
DEADLY DRIVE[でっどりぃ どらいぶ]

DEADLY DRIVE』(デッドリィ・ドライブ)は1977年5月25日に発売された伊藤銀次通算1作目のスタジオ・アルバム
== 解説 ==
1975年6月15日をもってシュガー・ベイブを抜けた伊藤銀次は、7月からりりィのバック・バンドである“バイバイ・セッション・バンド”に土屋昌巳の後任で参加した〔バイバイ・セッション・バンドII(1975年7月-12月):りりィ(Vo), 平野肇(Ds), 斉藤ノブ(Per), 茂木由多加(Key), 吉田健(B), 伊藤銀次(G)〕。バイバイ・セッション・バンドは1976年1月のメンバー・チェンジでキーボードは茂木由多加から坂本龍一、ドラムは平野肇から上原裕にそれぞれ交代〔バイバイ・セッション・バンドIII(1976年1月-6月):りりィ(Vo), 上原裕(Ds), 斉藤ノブ(Per), 坂本龍一(Key), 吉田建(B), 伊藤銀次(G)〕。その直後に始まった大瀧詠一山下達郎とのオムニバス・アルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』〔ナイアガラ・トライアングル(大瀧詠一山下達郎、伊藤銀次)『NIAGARA TRIANGLE Vol.11976年3月25日発売 NIAGARACOLUMBIA LP:LQ-7001〕のレコーディングは、このときのメンバーを中心にツアーの合間を縫って行われた〔りりィ『AUROILA』(1976年5月20日発売 EXPRESS ⁄ TOSHIBA EMI LP:ETP-72168)は、このメンバーでレコーディングされた。〕。
その後バイバイ・セッション・バンドは1976年7月、更にメンバー・チェンジがあり、ベースは吉田健から田中章弘、キーボードが坂本から緒方泰男に代わった〔バイバイ・セッション・バンドIV(1976年7月-12月):りりィ(Vo), 上原裕(Ds), 斉藤ノブ(Per), 緒方泰男(Key), 田中章弘(B), 伊藤銀次(G)〕。その時に斉藤ノブが音頭をとって、せっかくこれだけ良い音が出ているから、このバンドでレコードを作ったりしようという話になった。伊藤によれば「ちょうど、ワーナー・パイオニアの知久(悟司)さんが『銀次、レコーディングしないか』という話を持ってきて、それでバンドごとワーナーに行ってしまおうという話をしていたんです。“マジック・バッグ”っていう名前が付いていたんです。斉藤ノブと僕がバンド・リーダーみたいな感じですね。みんなが非常にいろんな音楽性を持っているからね、すごい強力なバンドになるんじゃないかってことで、そしたらこのレコーディングの後にまた上原裕が抜けるんです。それでマジック・バッグは消滅してしまうんです。また幻のバンドです。それで結局、ワーナーのアサイラム・レーベルには銀次だけが行くんです。それでその時には一気に僕と斉藤ノブはバイバイ・セッション・バンドを辞めるんです」という。
当初はバンドとして発表する予定だったアルバム『DEADLY DRIVE』は、こうして伊藤の完全なソロ・アルバムとして発表されることになったが、この時期を後に伊藤は「僕はあの頃はザ・クルセイダーズとかボブ・ジェームスマイケル・フランクスなんかを聴いていましたね。ちょうど端境期みたいなところで、音楽に非常にテクノロジーが要求されていた時代でしょ。だから、これまで我流でやってきた銀次は見事に壁にぶち当たるんです、ガーンと。その時期にアルバムを作ってしまったというね。特にこの『デッドリィ・ドライブ』を作ったときになんで理論が欲しかったのかというと、人に伝えられないんです。頭の中でこういう音が鳴っているんだけど、これを形にして言えないわけですね。そこで僕は『デッドリィ・ドライブ』を作って、ズドーンと落ち込んじゃうんですね。やっぱりそれを痛感するんです。自分自身のソロ活動もうまくいかないんです。一応、そのレコーディングの後に“銀次バンド”っていうのを組んだんです。このメンバーで坪田直子のバックをやっていたんです。それで銀次バンド、早稲田(大学祭)出たりとか、坪田直子の後、中村きんたろうとかやってましたけど、もうすごく地味な活動でしたね」「その頃、古澤良治郎さんと僕とで荻窪ロフトとかでセッションをやりました。やってた曲はほとんどインストゥルメンタル。<こぬか雨>とか歌ってましたけどね。最初、荻窪ロフトなんかでやった時、お客さんすごい来たんですね。100人ぐらい。次やった時40人になって、次の時には10人。まぁ、古澤さんのファンが来ても面白くない、僕のファンが見に来てもなんだか訳の分からないような、試行錯誤でしたね」〔と振り返っている。
本作については「全体的に言えることは、全体のポリシーというのを考えないで作ったアルバムだという。だから自分がその時感じていた面白いことを全部やってますね。トータリティなんて全然考えてないからアルバムとしては失敗作だと思います。でもその後、銀次がいろんな事を始めるきっかけになるものはいろんなところに出てきているな、という気はしますね。このアルバムによって、一曲の単位のポップ・ソングの構成の仕方とかを分かっていないな、というのを自覚した」と語っている。また、最初から決めて録られたので、このアルバムにはアウトテイクが全く存在しないという。その理由を伊藤は「その場で要るか要らないか即決して、必要なければ消してしまうんですよね。それがいいのかどうか分からないですけど、ヴァージョンは1つしかない、って思ってるんですよ。でも再発とか、後々のことを考えるととっておいた方が良かったのかも」としている。
ジャケットの写真は明け方3時ぐらいの東京湾トンネルで、撮影時は2月だったものの、5月のリリースに合わせてTシャツで撮影された。伊藤の背後を走っているのはディレクター知久悟司の車だという〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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